2013/11/09 どこがいいの? 雅歌5:9-6:3

夫に去られた妻が、夜中町中を捜すが見つからない。その不安な気持ちを、エルサレムの娘たちとの会話によってまぎらわす。ときには時間の無駄とも思えるおしゃべりも、悩む時には助けになる。
娘たちは「相思相愛のあなたたちも、このごろうまく言っていないのじゃないの?あなたの愛する人は、他の愛人よりどこがいいの?」と、問題の核心をついて来る。こう問われて、10節以下いいところを数え見る。描写は、肉体的魅力が主だが、「あの方のすべてがいとしい、これが私の連れ合いです」と言うまでになる。相思相愛の仲でも、時が経つと、相手の欠点ばかり目について、いいところが少しも見えなくなる。
キリストについても、これと同じ事が言える。キリスト者になって、どこか良かったのかチェックして見ることも大切だ。キリストが私に他にまさって、「何が優れているのか」と考えて見よう。
パウロは、キリストを知ったことと比べて他はちりあくただ、と言ったが、こういう信仰が私たちにはあるか。女が『あの方のすべてがいとしい』と言ったが、これは肉体的にいとしいと言ったのではなく、相手を尊敬し信頼できなければうまくいくはずがない。
信仰・教会生活でも、キリストに対する愛と信頼が希薄になっているかどうかが、喜びと感謝に満ちた毎日が送れるかどうかのわかれめになる。もしそうでなければ、始めの愛の原点に立ち返らなければならない。
6:1以下になると、娘たちも”ではいっしょに捜しましょう”と言うことになる。”夫婦喧嘩は犬も食わぬ”と言われるが、夫婦げんがは本当に人に迷惑をかける。スタンダールは「恋愛論」のなかで、最初は「あばたもえくぼ」になり、次第に「えくぼもあばた」になる。ただし冷却期間を置いて見て、第三者を通しての語り合いもあれば、冷えた結婚生活も活性化になる。とにかく人はお互いにわがままで、人騒がせなのだ。離婚して、他の人といっしょになっても、また同じ繰り返し。人間が罪人である限り。

女は、愛する人は、私の首飾りを作るために、百合の花を集めるのに、自分の花壇に入って行ったと大見得を切る。『あばたもえくぼ』時代のことを考えているのだろうか。だが今は帰って来ない不安な思いがある。男には男の世界がある。
私たちも人間関係に疲れると、自分の世界に閉じこもってしまう。創世記2章でアダムが仕事や使命の中に、助け手になるものを見出せず、主なる神がエバを連れて来られて、初めて満足を見出した。しかしエバとの関係がこわれれば、どこに安らぎと喜びを見出したらよいのか。それこそ『争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住む方がまだましだー箴言21:9,19』と言うことになる。
『私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの』、相思相愛の思いである。だが相手が去ってしまってからでは、もう遅い。キリストとの関係も同じである。悔い改めるべきときに、悔い改めよ!        (美浜BBC金曜婦人会。2013.11,8)