2013/12/01 クリスマスの約束

クリスマスおめでとうございます。
美浜教会からメッセージをお届けいたします。
クリスマスの約束 イザヤ9:1-7

イザヤは七世紀の預言者だが、イスラエルはアッシリア帝国に脅かされていた。そうした不安と同様の時代に『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる(生まれた。与えられたー口語訳)』という約束を語った。これは「預言者的完了形」と言われるもので、七百年後に起こる起こる出来事をすでに起こったように語る用法。イザヤは七百年後に起こるクリスマスの出来事を、すでに起こったかのように告げている。
この預言は、ヘンデルのオラトリオ「救世主」にも歌われている。クリスマスが来たという感動が胸に迫って来る。私たちは「明日のことはわからない」とよくいうが、クリスマスはそういうあやふやな「本当にあるかどうか分からない」と言う不確実なものではない。このクリスマスの約束は確かなものだ。これはもっと言えば『万軍の主の熱心がこれを成し遂げる』。もし神の側に、「滅び行く魂をどんなことをしてでも救おうとする」熱意、燃えるような愛がなかったらば、クリスマスはおこらなかっただろう。

『やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った』。ザカリヤの賛歌に引用される。ヨハネはその道備えをするが、深い感動をもって読まれる。現代でも、戦争や災害による多くの難民が毎年発生している。だがそれだけだろうか。これはキリストを知らなかった私たちの姿ではなかったか。
『喜び』が短い節に三回も繰り返される。あの羊飼いに対して、御使いは何と言ったか。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのですールカ2:10』。
私たちの人生に何が欠けているか。快適な生活の中にも『喜び』がないと言うこと。喜びのない家庭、喜びのない職場、喜びのない教会、喜びのない私。ではどうすればよいか。救い主を真実な意味でお迎えすることではないか。
イザヤは、喜びの理由を三つに要約している。①光がきたことで、重荷が取り除かれる。士師ギデオンの時代に、神ご自身が選ばれた民を用いてミデアンの圧政に勝利されたように(士師7:15-25)。
『すべて苦労する者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい』の言葉に、何百何十万の人が主のもとに来て、重荷を降ろしたことか。
②主が敵を打ち破られたことによって、力による平和ではなく、すべての軍備を破棄する主による確かな『平和』が来る。主イエスは十字架によって憎しみを葬り去られた”平和の主”であられる。
③『子』の登場である。これこそ前二者を実現する最高の根拠である。私たちの魂を満たすのは、物質ではない。人格である。主なる神は、この世のすべての敵(罪と死)を打ち破るために、この世で最も弱い存在・赤ちゃんをお用いになった。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者を静めるためでしたー詩篇8:2』。

そしてこの『子』の性格が四つあげられている。
①不思議な助言者。口語訳は『霊妙な義士』、新改訳で少しは分かりやすくなった。英訳では「ワンダフル・カウンセラー」ともっと分かりやすい。人生で、もっとも素敵な相談に乗ってくれる方を、私たちは与えられている。これほど幸せなことはないだろう。
②力ある神。無力な神ではない。この『子』はもっとも弱い姿でこの世に来られたが、弱い人々を救うためである。飼い葉桶のみどりご、十字架から降りて来なかったお方。それもこれも、すべて
私たちが救われるため。
③力ある神は『永遠の父』となられた。『父なる神よ』と呼べる神の子どもとされた。この喜び、この感謝、この平安。
④平和の君。当時、「ローマの平和」と皇帝がたたえられた。しかし歴史は、その平和は人々の心を満たすものではなかったと告げている。『平和の君』、このお方は、ご自身のいのちを犠牲にして、神との平和、人との平和をつくられた。『平和を作る者は幸いだ』とおっしゃられた主のことばに従って、私たちも平和を作る責任を担わされている。家庭の平和、職場、学校の平和。平和の君を頂いた私たちは、どんな犠牲を払っても、平和をつくって行かなくてはならない。争いの種をまき散らしてはならない。
この『平和』は、上滑り的ではない。さばきと正義とによって、神が支えておられる『平和』である。神の正義が踏みにじられる時、神ご自身が裁かれるところの『平和』であることを心得て置かなくてはならない。
羊飼いたちが聞いたクリスマスの天使たちの賛美は『いと高きところに、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるようにールカ2:14』。この逆ではない。栄光を神に帰す生活をしないでおいて、平和がない平和が来ないと嘆いてみても、ないものねだりでしかない。
(美浜BBC礼拝 2013,12.1)