2013/12/15 影の立役者 マタイ1:18-25

クリスマスには、マリヤが中心で、ヨセフは降誕の記事以後出て来ない。早死にしたのだろう。マリヤは十代なのにヨセフはかなり年を取っていたと見る向きもある。いずれにせよ、ヨセフがいなければ、マリヤもイエスのいのちも危なかった。まさしく影の立役者と見ていい。私たちの人生も表舞台と影でありながら重要な役割をする人がいる。だれでも表舞台に立ちたい。教会ではどうか。影であってもぶつぶつ言う人と言わない人がいる。むしろ”影の立役者”がいるかいないかによって、その教会は良くも悪くもなるのではないか。
「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤから生まれー使徒信条」ここには『聖霊による18,20』クリスマスが強調されている。
①人間のわざではない。たとえば妊娠するという結果は男女が結合した行為が原因している。しかし新しい命そのものは人間が作り出すことはできない。あくまで与えられるもの。日本人は”授かる”という。人間はその中に介入できない。家族に赤ちゃんが生まれてひとり増える。考えて見れば不思議。それと同様に一人の人がキリスト信者となる、これも奇跡、不思議と言わなければならない。昨日まで見向きもしなかった神を信じ、キリストのおっしゃることに喜んで従う生き方が始まる。これも聖霊の働きがなければ、絶対にできないこと。
②このことはまた、「信頼」につながる。ヨセフは、『正しい人であった』ので、マリヤのお腹が大きくなったのが分かって、よけいに悩んだ。
それでひそかに「離縁」しようと決心した。ヨセフは『彼女をさらしものにしたくなかった』。ヨセフは自分が裏切られたという立腹感より、彼女のことを第一に考えた。腹立たしさよりも、彼女を「信頼していた」、
家庭においても、教会において、”信頼”の絆が保たれているかどうか。人間は互いに繰り返し信頼を裏切る。その結果、二度と信頼する冒険はしなくなる。それでも裏切られる相手をなおも「信頼」する。にもかかわらず信頼する、それが可能になるのは聖霊の力によるほかしかない。
③神が人間を信頼し、人間に希望をかけておられるので、キリストは来られた、信頼、愛の意志、行為がクリスマスでの神の到来を実現した。あなたは人間不信かも知れない。しかし神はあなたを信頼し、愛してくださる。
④聖霊による宿りは、徹底的に人間の誇りを打ち砕く。キリストの系図には、姑ユダによって妊娠したタマル、異民族の遊女ラハブ、異民族の婦人ルツ、ウリヤの妻(ダビデの妻ではない)、ウジヤやアハズはイスラエルに偶像を導入した張本人。こうした人間の犯罪と危機、嘆きの系図から、それこそ主イエスはその中にのたうちまわっている『ご自分の民をその罪から救う』ために来られた、いなむしろ『救うために』、この問題の多い系図の中へ入って来られた。これこそ神のあわれみであり、クリスマスの恵みである。
⑤このようにして『インマヌエル(神われらとともに)』が現実となった。エデン追放以来、人間は神から見放され、終始、孤独と自力で生きねばならなかった。そこには、多くの転落、挫折、失敗が暗黒のように、私たちの人生を覆ってしまった。しかしキリストがおいでになることになって、光が差し込み、再び神がともに歩いてくださる人生を歩くことができるようになった。ちょうど幼子が夜の暗闇の中を、泣き出したい不安を抱きながら歩いていて、突然暗闇の中から母親の手、父親の手で握り締められて、安心するように。
まばたきの詩人と言われた水野源三の詩に
母がともに
我ひとりで悩むのではなく、母が共に
我ひとりで聞くのではなく 母が共に
我ひとりで信じるのでなく、母が共に
我ひとりで祈るのでなく、母がともに
我ひとりで喜ぶのでなく、母が共に
我ひとりで待つのではなく、母がともに
こうであれば「我ひとりで苦しむのではなく、神が共に、我ひとりで生きるのでなく、死ぬのではなく、神がともに」とのインマヌエルの人生は、もっとすばらしいのでないか。どんな状況にあっても、神と一緒にいて下さるという確信を持つことができる。これもまた聖霊による、クリスマスの決定的な奇跡。これが理解できない人間がいる(ルカ15:31)。自己義が強い者ほどインマヌエルの人生が喜びと感謝にはならない。

最後にヨセフについて語る時、レンブラントの『夢による指示』に触れなければならない。東方の博士たちが帰った後で、ヘロデは幼子イエスを殺そうとする。『エジプトへ逃げなさい』と夢の中での命令をうける。絵の中では、ヨセフは、マリヤと幼子イエスに背を向けている。そこへ光が射し込み天使がヨセフの肩を叩く、「早くしないと、幼子イエスのいのちが危ない」と語りかけるように。私たちにもがっくり疲れていて何もかも無気力に陥っていても、前に進まなければならないことが多々ある。ヨセフは、マリヤを妻として迎え入れたときも、エジブトに逃げなければならないときも、勇気ある責任ある使命を全うした。まさに「影の立役者」。
しかしまことの立役者は「聖霊」なる神であることを忘れてはなるまい。
(美浜BBC 2013,12.15)